嫌いなひと
2限が終わり、梨華たちがいる方を見た。
今朝の出来事を思い出す。
「智美、宿題に出てたプリント見せてくれない?昨日いろいろ大変でさ~。ね、いいよね?」
なんとなく嫌だったが、さっと鞄からプリントを出して渡した。
朝から作り笑いをするのはなかなかエネルギーがいらうなと思いながら。
「ほんとさすがだわ、ありがと~!」
と言っていつも一緒にいる子たちの方に帰っていく。
きっとあの子たちとも答えをシェアするんだろう。
梨華はとても気立てがよく、容姿も学科の中では可愛い方で、たぶんモテる。
服やメイクは流行りのもので、それがきちんと似合っていた。
誰からも好かれるタイプ。
いや、私は好きじゃないから、誰からもというわけではないか。前言撤回。
視線を落とした先の履き心地がいいスニーカーは、だいぶ汚れてきていた。
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3限は空きコマだったため、私はいつものようにあの店に向かった。
大学から歩いて10分ほどのところにある、小さなコーヒー屋。
ここは駅から遠く、大学の目の前にはわりとたくさんのお店が並んでいたので、この時間にここまでわざわざ来るような同じ大学生は見たことがなかった。
さっさと明日の予習を終らせてしまおう。
辞書をパラパラとめくりながら、せっせと進めていく。
一時間ほど経ったころだろうか、からんから…カランとぎこちないリズムでドアのベルが鳴った。
辞書をいったん閉じ、頼んだあずきミルクを口に運ぶ。
「あれ? 智美?」
嫌な予感。作り笑いをうかべる準備を性急に整え、振り返った。
「え!梨華じゃん。珍しいね」
予感的中。最悪だ。
「なんか、散歩してたらさ。かわいい店だなあと思って。ここ私も座って良い?」
まったく作り笑いとは思えないその表情で言われたら、嫌だと言えなかった。
「いつもここ来るの?なににしようかな~。智美が飲んでるの、それなに」
「あずきミルクだよ、あったかいやつ」
はあ。ぎこちなくならないように、笑顔がひきつらないように、不自然な間ができないように。
体が引き締まる。
「へー、なんか不思議なもの飲んでるね。私もそれにしようかな」
こういうところが嫌いだ。なんかこう、こちらの嫌な感情には目もくれず、ちゃんと合わせようとしてくるかんじ。
もっとわがままで、私みたいなのと壁をつくりたがるようなあからさまな人だったら、嫌いって私が言っても誰も文句は言わないだろう。
こうやって屈託な笑顔を向ける彼女に私が嫌いなんていったら、私は一気に悪者じゃないか。
何を話そう…。困る。
そういえば、こうやって2人きりで話すのは1年生のときの4月以来だ。そのときから、なんとなく合わないと思って距離をおいていた。
私が焦るのとは裏腹に、彼女はゆっくりとお冷やを飲む。
「私ね」と、梨華はリラックスして背もたれによりかかった。
「ほんとは智美ともっと話してみたかったんだよね」
…いや、そんなことないでしょ。
あなたと私は全然違うんだから。話したって大して面白いはずもない。
でもそんなこと、言えるわけがなかった。
私はなんとか笑って「そうなんだ」と言い、あとは黙って次の言葉を待つことにした。
「智美って、私のこと嫌いでしょ」
あまりに意外な言葉に私は次に返す言葉を見失った。
そんなことないよと言いたいが、うまく口が回らない。こういうときって、どうやって嘘をつくんだっけ。
こんなときに限って頭がまわらない。きっと今日は朝からエネルギーを使いすぎたんだ。
ああ、こんなに間が空いたらバレてしまう。
急げ自分、そんなことないよって、いつもの作り笑いをすればいいんだよ。
それだけなのに。口がこわばって動かない。
「はあ、やっぱり。どうして?」
「いや、なんかわかんないけど…好きじゃない」
えええええ。言っちゃったよ、え。今自分ナニヲイッタノ?
「ふーん。まあ、私はなんとなくわかるけどね。智美、今日私がプリント見せてって言ったとき、嫌だなって思ったでしょ」
図星だ。混乱する。私の作り笑いってそんなにわかりやすいの?ばれてたの?終わった…
「あと、私が着てる服とか、メイクとか、周りにいる友達のかんじとか。気に入らないんでしょ」
もう降参だ。
ここで、「いや、全部はずれだよ。そんなことないよ」と笑ったって、あまりにも嘘すぎる。
「やっぱりか…なんかショックだな。自分で言っといてあれなんだけど、否定してほしかった」
そういってまた屈託のない笑みを浮かべる。
人に嫌われてると知って、まだそんな笑みが浮かぶのか。
わからない。計り知れない。怖い。
「ごめん」
絞り出してやっとでてきたのが、たったこれだけ。
私ってこんなに人としゃべるの苦手だったっけ。
「いいよ。誰にでもそういう人はいるよ。ちょっと悲しいけど」
「お待たせしました~」と店員さんがあずきミルクを運んできた。
梨華は一口のみ、目をまんまるくして、おいしい!と言った。
ほんとにおいしそうだ。きっとこの人は私みたいにこそこそと嘘をついたりしないんだろう。
ますます嫌いだと思った。
「私もね」
湯気の立つカップを持ちながら梨華が言う。
「高校のときね、嫌いだったの。今の私みたいな子。智美を見ると、昔の私に似てるなって思う。」
「なんで?梨華もこんなだったの?」
「うん。でもね、だんだん気づいたの。私、あの子が羨ましかったんだって。私が絶対やらない、絶対だめだって思うことを、かるーくやってしまうのね。たとえば、男の気をあからさまに引くようなことするとか。」
そのときの梨華のいかにも「腹が立っている」顔がちょっとおかしくて、くすっと笑ってしまった。
「それは嫌だね」
「でしょー!でもさ、こんなこと言うとまた私のこと嫌いになるかもしれないんだけど、そんなことも含めて、私、羨ましかったんだって。制限をかけずに、人から嫌われちゃうようなことやるあの子が、自由にみえて。それに気づいたときは、えーーー、心底嫌だって思ってたあいつのこと、羨ましいから、自分ができないことしてるからこんなに嫌いなんだって、恥ずかしくなっちゃったよ。嫌いなあいつと私が同じものでできてるなんてね。最初は信じたくなかったけど。でも、なんかそこからいろいろふっきれちゃって。」
「あいつ、ね」と、私は笑った。
これは嘘の方じゃなく、ほんとの方の笑った顔。
「そ。私けっこう心の中では汚い言葉がでるの。嫌なやつなの。嫌われたくないから、そういうのあんまり出さないけど」
私はあと少し残っていたあずきミルクを飲み干した。
「知ってる。それじゃあ今は、男の気をあからさまにひいてるってこと?」
ちょっとふざけて言ってみる。冗談がいえるなんて、最初の私からは想像もつかなかった。
「はははっ、それはしないよ。女子に嫌われたくないからね。でも、そういう人を見ても、あんまり嫌じゃなくなった。自分も同じだってわかったからね。」
梨華はカップを皿に置き、スプーンでかきまぜながら言った。
「人ってさ、自分もほんとはそうしたい!とか羨ましい!ってことをやってる人を見ると、嫌いだなって思ったり、なんとなく腹が立ったりするんだなって。だって、ほんとに気にならなくって、自分に関係ない人だったらなんにも思わないでしょ。幼稚園の頃いなかった?おもちゃ片付けてって先生に言われて、自分は片付けてるのに片付けてない子がいると、その子のとこに行って、かたづけてよ!!って怒ったり、場合によっては叩いたりケンカしたりしちゃう子」
「わかんないなあ、そんな前のこと」
「まあそれもそうだよね。私、一番下の弟とけっこう離れてて、弟迎えに行ったときにそういう子がいたんだよね。たぶん、自分が我慢してるのに、なんでお前は我慢しないんだずるいぞってことなんだよね。あれはなかなかはっとさせられたなあ。あ、時間大丈夫?4限ある?」
そうだった。もうそんな時間か。
いつのまにか、いかにうまく取り繕うか考えずとも夢中になっている自分がいた。
梨華は4限がないからそのまま残ると言ったので、私はひとりで店を出た。
歩きながら、梨華との会話をもう一度、頭の中で繰り返す。
言われてみれば、たしかにそうだ。
私が梨華のことが嫌いな理由を思い浮かべる。
流行りの服やメイクが似合うこと、誰にでも正直に接すること、簡単に人に頼みごとをすること、気立てがよくて好かれること、私みたいに作り笑いをしないこと。
なあんだ。私、梨華みたいになりたかったんだ。
4限に向かう。午後のきいろい光が温かい。
いつもは眠い午後の授業の時間。
目覚めの良い朝のようにすっきりしていた。
※このお話はフィクションです※