人間堕落
保育園のときはおじゃ魔女ドレミになりたくて、小学校のときはお医者さんか研究者になりたくて、中高のときは感動する映画を描くクリエイターになりたかった。
大学4年、いま。
あれこれやりたいことはあって、あれかっこいいなあこれもすてきだなあ、できるようになりたいなあと思うことはある。でも、結果的になにかになることはあるかもしれないけど、なんにもならんくていいやと今は思う。
たまに衝動で動きすぎて、骨の髄まで疲弊して動けなくなるときがある。
なんにもなくていいから、ゆっくり呼吸してたい。そんな気分だ。
私の生き方とかをみて、アーティストっぽいよねみたいなことを言う人いるけど、アーティストだったらもっとちゃんと一貫して突き詰めていくイメージが、私とかけ離れているように感じる。私はえらくない。
好きなことはあるけれど、365日それをしなきゃだめと言われると嫌だし。
365日好きなことはしていたい。ただ、ひとつのことをやり続けるようなストイックな感じじゃなくて、今日は山に登って明日は歌を歌って、明後日は絵を描いて来週はおいしいものを食べに行くような。
人から決められたことができない。や、正確にはやれるっちゃやれるし、余計めんどくさくなるようなときはやるけど、ものすごく精神を抉られる感じがする。課題とか…
人から決められたことはやれないし、自分で決めたことだってたまにやりたくない。
歌うことも描くことも、寝ることも好きだけど、それをやりたくない日というか時期はけっこうある。
今までは、やばい!好きなことも頑張れないなんて!本当は好きじゃないんじゃないか?とかいろいろ考えたけど、たぶんそういうことじゃないんだろう。
今はなんとなくしたくない。それだけ。
それに、好きなことだからってやんなきゃいけないわけじゃないし、途中好きじゃなくなったっていいんじゃないか。
そんなかんじで適当に。
その日も休んでみた。
何をしたかというと、寝た。
おなかのあたりがぐるぐるしない?
歌の先生に「うまくなったね!」って褒められてすごくうれしくて、「先生のおかげです!」ってことばが喉まで来ていたのに、せんせーのおかげだってなんだそんな陳腐な言葉、嘘っぽくなるじゃないかって思って言えなかった。本当なのに。嘘じゃないのに。先生の本物の言葉が嬉しかったのに。ありきたりでも、言ってしまえばよかった。こうやって飲み込んだって、なんにも伝わらなかったじゃん。あーあ、どんくさいな。すっと言えたらいいのに。でもこの一発を失敗したら、取り返しがつかないんじゃないか、相手はこう思ってしまわないだろうか、なんてことをあーだこーだ考えてるうちに、結局かませず終わる。嘘やお世辞は秒で出てくるのにな。重さのない言葉をぽんぽんぽんぽん放出したって、重みのない結びつきに虚しくなるだけなのに。
時間に追い付けなくて取り残されている感じ、5月は嫌い。
上手に生きるなんて無理だ。
大したことない、あなたでしかない。
六本木ヒルズにふらり。
もともと予定外のことだったから、渾身のおしゃれみたいなのはしてなかった。だから高級な服屋さんに入ったときに場違い感があって、なんだか恥ずかしかった。
いや、渾身のおしゃれをしても、私は何万円もするような高いものを身につけないから、どうしても場違い感はでてしまうのか。
高いものを身に付けていないとなんだか、店員さんに「あなたの来るべき場所じゃないわ」と見られているような気がして、いたたまれなくなってくる。いろんなすてきな服を見てみたいのに。
でもkくんが隣でぼそっと「全部服はがせばなんでもねえのに」と呟いてはっとした。私は一瞬にして脚色された世界から抜け出すことができた。
たしかに、高級な服を全部脱いでしまったらもうその人だけだ。ほんとになんでもない。高級なブランド店の店員も、なんてことのない、みんな、同じ、ひと、でしかない。
高級な服に価値がないと思ってるわけじゃなく、高級な服やバックを持ったからといって、あなた自身の本当の価値が上がるわけじゃない。
まあ正直、周りからの扱いは変わるだろうけど。
私たちは、その飾り立てられたその姿にすぐに騙されてしまう生き物だから。
服やバックだけじゃない。学歴、財力、経歴、権力。
本質ではないと知りながら、その威力に抗うことができない私たち。
それらは私自身なわけではないと知りながら、ときにその力を振りかざして生きていこうとするひとたちの、そして私の醜さ。
人間らしいね。
努力して手に入れたものだから私のだって?
たしかに努力はしたのかもしれない。
でもそこに努力を、意識を向けることができていたのは生まれがたまたまよかっただけなんだよ。生まれついたところがそうだったってだけなんだよ。そうじゃないと始まることすら許されないんだ。
こういうふうに書くと、自分ができないことを生まれのせいにしてきたやつだと思われるかもしれない。
ちなみに私はわりと恵まれて生まれてこれたと思っている。それでもまだ、高望みして羨んでしまうことはあるけれど。
スタートラインにさえ立てない人たちを間近で見てきた。
あなたが思い浮かべる努力とかの、さらにもっと前の段階。努力しなかったからでしょ?じゃない。
たしかに彼らは優れた装飾があるわけじゃない。
でもあなたのような生まれであったら、もしかしたらあなたのように「きれいな」「すごい」人になっていたかもしれない。
いい加減気づけ、同じ大学に通う天狗野郎共。
その振りかざしている力は、自分ではないんだよ。
こんなこと言うと、反感を覚える人もいるだろう。「見せかけのものを取り除いた、素っ裸の自分をみたら本当は大したことなかった」だなんて誰も思いたくないからね。
あ、なんか違う話になってしまった。
とにかく、時々立ちはだかる虚飾に、一喜一憂しなくていいってこと。化けの皮を剥がしちまえば、みんないっしょ。裸ん坊のあかちゃん。刺されると赤い血がでてくる。
あなたは大したことない、あなたでしかない。でもそれが、大したもんだ。
とかなんとかかっこつけて、また明日、学歴っていう上等な服を着て「優れた家庭教師」のように振る舞う予定だ。
人間らしいね。
人間合格
夜の新宿発各駅停車。
向かい側の席、お堅そうな年寄りサラリーマン、ガラケー、ムズカシソウナ本、ハゲぎみ、かっちりした形のバッグ、きっちりスーツ、吐き出せない言葉の数々が刻まれてしまったしわ。
もろに私の顔をじーっと見てきて逸らさないから、私も、人生を舐めきったような顔でおじさんのしょぼい目をじーっと見つめながら、残っていたGODIVAのチョコレートドリンクを音をたてて飲み干してみた。おじさんは何を思ったんだろう。
隣に座ってる若めのサラリーマンはめっちゃ貧乏ゆする。なににそんなにざわついてんだ。
就活は?ってここ一週間でそんなに親しくもない人にめっちゃ聞かれた。ふつうに来年卒業する予定だけどまだ就活してないから、いろいろ聞かれて答えるのがめんどくさい。
大体、そんな知りたいわけじゃないだろうに。今日天気いいねーくらいの会話でしょ?そういう間柄じゃないのに、無駄な会話、いちいちしなくていいじゃないか。そんなんで私の何を測ろうとしているんだい。私がどれくらいの値段なのか知りたい?自分がいくらの人間と交流してるか知りたい?
空虚な間はそのままほっといたらいいのに、無駄な会話で埋めたがる。大して興味もないんだから、聞かなきゃいい。無言でいたらいい。どうしてそんなにしゃべりすぎるんだ。
でも考えてみると一番にめんどくさいのは、この時期に就活しないっていう選択をする自分の方だ。周りはただふつうに、ごくふつうの会話がしたいだけなのに。だけど、私はまだ嘘をついてまでこの無駄な会話をも省略してしまうほど誰かを粗末に扱ってないから人間合格。明日は知らないけど。大学二年生ですって言い出すかもしれない。
別に堀江貴文になりたいわけじゃない。意識が高くて威勢のいい大学生みたいに、これからは個の時代だから会社に入るなんて!サラリーマンなんて!って思ってるわけでもない。私はそれほど強くない。
ただ、私でいたいだけ。嫌いなことをすること、自分を騙し騙し生きることが、人よりできないだけ。だから、私はだめ人間。だめだめの中のだめ子。でもそれでいい、だめでいい。もうこれ以上できません、がんばれません、お手上げです。そういうわけだから、好きに生きていきます。
降りた駅にゴミ箱がないことは想定外で、空のGODIVAカップを持ち帰らなければならなくなった。
体調を整えるために甘いものを控えるってkくんに宣言してたのに。
小さな秘密がばれてしまうなあと、私を甘やかしてくれるおうちに、さあ帰りましょ。
ちくたく ちくたく
帰り道、小学生くらいの女の子たちが別れ際に
「じゃ!あとはラインで!」と言っていた。
ああもうそんなふうになったのかと思った。
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ひとが本当に歳をとるのっていつなんだろう。
たとえば、
自分より若い子たちがなにやらを使いこなしてるのを見たとき?
同い年の近しい人が妊娠したとき?
仲のよかった後輩が卒業するとき?
中学校から長いこと付き合っていた友人カップルがもうすでに別れていて、その彼女は彼氏の親友と結婚していたっていうことを聞いたとき?
あんなに「彼に夢中!」だった子が、一途じゃない恋をするようになったとき?
えっちな話にいちいち驚かなくなったとき?
盲目にならない恋をし始めたとき?
親を見て、体が動かなくなってきたなあと思ったとき?
少なくとも、誕生日じゃないよなあ。
こんなふうに、ああ、前はこんなときがあったのにねって懐かしく思い出したとき初めて、本当に歳をとるんじゃないか。
ということは、今日もまた歳をとったのね私。
淀み、濁り、滞り。
流れを整えて、流れにのる。
そういうふうに生活していきたい。
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最近、とても繊細に敏感に、目に見えない流れやエネルギーのようなものがわかるようになってきたなと感じる。研ぎ澄まされてきた。
決して私が特別だからというわけじゃなく、これを感じとる力はだれにでも備わっているものだと思う。
なんかやだな、なんかいいな、って。そんなかんじで簡単だけど、正確に。
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この間、私の住んでる部屋で、なにかがおかしいと感じた。エネルギーが滞っているかんじ。流れていってないというか…
気持ち悪い、吐き気に近い感覚。
一緒に住んでるKくんも、その日はなんだか元気がなくて、波長もずれている感じで、会話してるのに全然心が通わない。いつもの、同じテンポで暮らせているという感じがなかった。
どうにかしないとと思ったけど、なにが原因かいまいちつかめない。
この家は溜まり過ぎているという感覚だけがなんとなくあって、気持ち悪さから逃れようと、何もかもを家からなくしたくなった。
あれもいらない、これもいらない。ここにあってはいけない。
そんな感じで半ばパニックになりながら、必需品以外は家から出した。
それでも足りない。もう全部なくしてしまいたかった。
でもKくんにそれ以上したらやりすぎだと止められ、泣きながら、やっとベッドに行く。
すると今度は頭が痛くなり、Kくんも喉が痛い、鼻づまりで息が苦しいと言っていて
「なんとなく」という気持ちが確信に変わった。やっぱり、悪いものがこの家で滞っているんだなと。
そしてふと、今朝、お風呂場の水が流れていかなかったことを思い出した。
それだと思ったがその日はとりあえず眠った。
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翌朝、昨晩の気持ち悪さがなくなっていた。今日は昨日と違うぞ。気持ちがいい。
Kくんが、お風呂の水がちゃんと流れるようにしていてくれていたのだった。
やはり、流れるべきところが塞がっていると、見えないエネルギーの流れの方まで、塞がってしまうんだなと思った。
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そして今日。
叔母に連れていかれた烏杜神社にて。
私の母は癌の治療をしているが、そこは癌封じの御守りがあって、それで治ったという人がいることで有名らしく、叔母は私に
その御守りを母にあげたら喜ぶんじゃない?
と勧めてきた。
だけど私はなんだか気が進まなかった。「ウッ」と喉が苦しくなるような感じがする。
叔母の言う通り、私がこれをあげたら絶対に母は喜ぶだろう。
それに、ここで買っていかなかったら、母のことを思いやっていないみたいじゃないか。
メリットがあるはずなのに、なんだかどうしても買う気が起きなくて。
そしたらふと、願い事を書くスペースがあったことを思いだし、そのための紙を買って、健康を祈願しようと思い列に並んだ。その御守りを買うかわりにしようと。
それはどうやらおみくじをひいてから願いを書くものだったらしく、私は健康に関するおみくじをひくことにした。
ふってから取り出してくださいと言われたので、適当に振り、しゃかしゃかしゃか。
巫女さんが番号を見てくれて確認してもらうと、それまで落ち着いていた巫女さんのお顔がぱあっと変わり、「超大吉です!これに当たったあなたは、とても強運です」と言う。
よくわからないまま、いろいろなお菓子や、御守りなどを受け取った。
そして、大切な人たちの心と体が健康で自由にあれますようにと願い、紙に書いて結びつけてきた。
もらったものはおすそわけして、福を分けようと思う。
やはり、ちゃんと感覚に従うことって大事なんだなと思った。
この前のことも、今日のことも、なんだかな…と思った感覚を大事にして、「ふと」思ったように動いたから、ちゃんと流れにのれたんだと。
ということで、条件はまぁまぁいいが心がざわついた家庭教師のバイトの依頼は断ることにした。
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自分をとりまくエネルギーの流れにのること。
第六感が働くようにしておくこと。
あるがままの流れを塞き止めないこと。
それが大切なんだなあ。
そのために、日々、自分を濁らせないように生きよう。
よくないものを溜めこまないようにして。
見える物も、見えない物も、どっちも。心に散らかしておかない。
さっき言ったように、最近敏感になっているので、その場所や人の状態が私の心と体にとてもよく響く。
今日も超大吉とやらを引き寄せたし、純度が高まってきているのだろう。
いろんなものを心に溜めこんでいる人は、この感覚が働かなくなっていく。
自分が流れに逆らっていたり、エネルギーがどん詰まりであったりすることに気づけない。
そういう人は、いろいろなエネルギーが詰まりすぎて淀んだ色をしている。
側にいるとこちらまで緊張してこわばってくるし、とても居心地が悪い。
これは決してその人が愛想がないからとか、不幸っぽいからとか、性格がきついからとかではないのだ。
笑顔でいたって、幸せそうだって、おしゃれをしていたって関係ない。
そして、状況によってそうなっている人ならまだいいけど、なかには本当に小さなころから溜め込んで溜め込んで、濁りに濁りまくって、その濁りが自分の旨味だと(お茶のcmではない)思っている強者もいる。
濁らせないためには、隠しておきたかった、聞きたくなかった自分の声にもちゃんと心を向けること。
それがどんなに途方にくれるような憧れだったとしても、汚い欲だったとしても、醜い自分が露になってしまうような恥ずかしい思いだったとしても。
自分を濁らせないためには、そうやってきちんと向き合ってから消化して、流していかないといけないのだ。
そうすると軽くなって、自分がたどり着くべきところへの流れにのれるんじゃないだろうか。
大事なものがなんなのか、目を凝らして耳をすませる。
ちゃんと生きよう。
春は、ふわりと重い。
空気が軽い。体が軽い。
頬をすべる風がやさしい。
土の香りがほわんと舞っている。
春だ。
桜は咲いていないし、新学期は始まってないし、夜はまだ寒いけど、もう春。春でいい。春なのだ。
このわくわくする感じ、高揚する感じは、新しいクラスと新しい先生と…
何もかもが新しくなることがなんだかとってもうれしくて、うきうきしていたあの頃を思い出すからだろうか。
そしてこの、焦燥感のようなもの。
うきうきに隠れている、不安や緊張みたいなものがひとさじ。
乗り方のわからない電車。
地上に出られないほど広くて複雑な駅。
PASMOでピってすればいいの?なんて便利な!
会う人会う人、キレイな言葉だ。
耳慣れない。
とりとめのない話をずーーっとしていても、どんな話をしても面白くて、泣きたいときはちゃんと受け止めてくれたあの子たちは、いない。
全く歯が立たない授業を、うんうんと頷き発言するあのひとたちは、小さな頃から全然違う世界を見てきたひとたちだった。
騙そうと近寄ってくるおとな。
なにもわからず流されるままのじぶん。
どんどんペースが乱れる生活。
好きな人とLINEしてるときに「ごはんだよー」と二階に向かって叫んできて、鬱陶しいとさえ思っていた声は、もうない。
毎朝、私が眠気と葛藤している時間に聞こえた「いってきまーす」で生活が区切られていたのに。
その声も、もうない。
ドラマチックに何かが起こったわけじゃない。でも、ほんのちょっとずつ、混乱して、傷ついて、寂しくて、どこか焦っていた。
あの春を思い出すからだろうか。